必ず見えるようになる 富高美和師

(マルコ8:22~26)

 私たちの肉体は年々衰えを覚えます。目も見えにくくなるでしょう。しかし、主を信じる者の霊の目は、主に近づけば近づくほど、年々はっきりと見えるようになっていきます(エペソ1:17~19)。
 ここに一人の目の見えない人が出てきます。人々が、彼をイエス様のもとに連れて来て、触って下さるよう願ったのです。イエス様のもとに行くことは、彼の思いではなかったかもしれません。しかし、彼には彼のため祈り、救いを得させたいと思ってくれている仲間がいました。私たちも、今日礼拝に集えているのは、背後で祈ってくれていた誰かがいたということに感謝する必要を覚えます。
 イエス様は、まず彼の手を取って村の外に連れて行かれました。彼の目の前は真っ暗です。不安を覚えればイエス様の手を拒むことが出来たでしょう。しかし、彼はイエス様に信頼し、村の外に出る道中イエス様の声に耳を傾け、心を開きました。村の外に出ると、イエス様は彼の両目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と聞きました。彼は暗闇が当たり前の世界だったので、見ようとする意識もなかったでしょう。しかし、イエス様は彼に「見ることが出来る」という意識を与えました。彼がイエス様を信頼し、自分の目で見ようとした時、聖霊様が働かれ、彼の暗闇の世界に光が差したのです。私たちも、福音を聞き、自分の口でイエス様が主であることを告白した時、聖霊様が働かれ、私たちは神の子、光の子となったのです。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
 しかし、救われたからといって全てがはっきりと見えるわけではありません。彼も初めは視界がぼやけていました。人が木のように見えたのです。私たちも信仰生活を初めると、様々な問題や迫害にあうでしょう。その時に神様がどのようなお方なのか、神様の計画は何なのかぼやけて見えてしまいます。
 彼が「木のように見えます。」と言うと、イエス様はもう一度両目に手を当てられました。そして彼が見つめていると、全てのものがはっきり見えるようになりました。この「見つめていると」がポイントです。ぼやけていても、諦めずにイエス様を見続けていると、必ず霊の目においてはっきりと見えるようになります。見続けるとは「告白し続ける」ことです。どんな時も、「私は神の子である!(ヨハネ1:12)」と。
 弟子たちが、はっきりと霊の目が開かれたのは聖霊が下ってからです(使徒2章)。彼らは霊の目が開かれました。①天の都を見ることが出来た(使徒7:55,56)(へブル11:16)②霊の戦いを見ることが出来た。(Ⅱ列王記6:8~23)(詩34:7)③天の神様の壮大なご計画を見ることが出来た。
 信仰の告白をもってイエス様を見続けるなら、聖霊様がはっきりと神様を見る目を与えて下さいます。あなたの霊の目は必ず見えるようになるのです。

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