多くの赦された者が多く主を愛する

(ルカの福音書 7:36~50)

富高美和師

 イエス様がパリサイ人シモンの家に招かれている時、一人の罪深い女性がやって来ました。37節には「その町にひとりの罪深い女がいて」とあります。恐らく遊女であったと思われますが、この箇所をギリシャ語で正確に訳を見ると「その町に、以前罪深い生活をしていた女がいて」となっています。つまり、この女性は以前は罪深い生活をしていましがた、今は違うということです。彼女はイエス様に出会って新しい人生を始めていた女性でした。彼女は、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、口づけし、香油を塗りました。本来なら招いたシモンがしなければならないことでしたが、シモンはそれをしていませんでした。彼女の涙は、自分を受け入れ、自分の罪を赦して下さった神様に感謝して流した涙でした。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12、13)以前の自分の生活が本当に罪深いものであっただけに、彼女のイエス様に対する感謝と、イエス様を愛する思いも非常に大きいものでした。ですから、彼女はイエス様の足元にひざまずくことも、自分の大事な髪の毛で足を拭うことも、高価な香油をイエス様のために使うことも苦ではありませんでした。本当に喜びをもって自分自身を捧げたのです。多く罪が赦されると、それだけ感謝と喜びが溢れ、多く主を愛する者に変えられます。しかし、パリサイ人であるシモンは「この方が預言者なら、この女がどれだけ罪深いかわかるだろう」と心で思いました。何故なら、シモンはイエス様が本当の預言者であるか確かめようとして自分の家に呼んだからです。そのようなシモンに、イエス様はたとえ話をされました。「二人の者がお金を借りていた。ひとりは500デナリ、ひとり50デナリ。しかし、彼らは返すことが出来なかったので、金貸しは二人とも赦してやった。」(ルカ7:41~43)返さなければならなかった借金が帳消しになった時、どんなにうれしいことでしょう。その金額が大きいほど感謝の思いも強いのです。本当に罪深い生活をしていた者にとって、全てを赦して下さったイエス様の愛は感謝しても感謝しきれないほどの素晴らしいものです。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)罪を自覚している人ほど、赦された恵みを多く経験し、多く主を愛することが出来るのです。(パリサイ人、取税人の祈り ルカ18:9~14)
 イエス様は、愛によって罪を赦し、本当の平安を与えて下さるお方です(ルカ7:47~50)。イエス様が自分にどれだけの愛を注ぎ、どれだけの犠牲を払って下さったかを考えると、ただただ神様に感謝し、涙で足を洗い髪の毛でぬぐったこの女性のように、イエス様を愛し、仕えることが出来ます。
(ローマ人への手紙5:6~8)
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

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