完全な捧げもの ヨハネの福音書 3章16節

富高尚師

 レビ記には旧約時代にイスラエルの民が捧げるべき捧げものが記されています。それは、私たちが捧げものによって清められ、「聖」とされることによって神様に近づき、交わり、共に歩むことができるようになるためです。この教えに従って神様と共に歩むなら、喜びと感謝に溢れた平安な人生を送ることができるのです。しかし、その捧げものは完全なものではありませんでした。毎年毎年同じことを繰り返し行い、罪をきよめてもらう必要がありました。また、当然ですが、これらの捧げものはすべて、「人から神へ」捧げられるものでした。
 しかし、今日のみことばは不思議なことに神様から私たちに「与えられた」捧げものです。神様は「聖」ですから、いけにえを捧げる必要のない方です。そのお方が、私たちに対する愛のゆえに、ひとり子であるイエス様を与えてくださいました。しかも、そこには神様の切なる願いが込められています。それは、「ひとりも滅びて欲しくない」という願いです。この捧げものによって、私たちの罪は赦され、完全に清められて、神様といつでも交わることのできるものとされたのです。しかも、イエス様ご自身が、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げてくださったので、繰り返し何度もいけにえを捧げる必要はありません。(へブル9:12)しかも、その贈り物を受け取るなら、「永遠のいのち」が与えられるのです。素晴らしい恵み、なんという祝福でしょう。
 では、この素晴らしい恵みと祝福はどのようにして私たちのものとなるのでしょう。その恵みと祝福を手に入れるために私たちがすべきこととはどんなことなのでしょう。それは、ただ「信じる」ということだけです。神のひとりごである「御子を信じるなら」私たちは滅びることはありません。それどころか、永遠のいのちが与えられるのです。
 今日の礼拝にも、私たちは手ぶらで出席しています。牛や羊を連れてきた人は一人もいないと思います。イエス様という完全な捧げものが捧げられたのですから、あとはただイエス様の十字架の死と復活を信じるだけなのです。
 でも、本当に神様はそんな私たちに何も要求しておられないのでしょうか。いや、ただ一つ神様が私たちに要求しておられる捧げものがあります。それは「感謝のいけにえ」です。私たちに「完全な捧げも」のを与えてくださったことに心からの感謝を捧げましょう。(詩篇50:13~15)私たちの捧げる「感謝のいけにえ」を神様は喜び、楽しみにしておられます。

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