「バプテスマ」

高森博介

テキスト:マタイの福音書28章19節
 洗礼とは、キリストと共に死んで、新しい命をいただいて生きることで、「古きが死に新しきに生きる」ことです。古い自分が死ぬということが信仰のスタートです。
 私は、大阪の万博聖会で「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタ 16:24)というみことばを示され献身をし、「神様が養ってくださるからどこからも支援はいただきません」と勇んで延岡開拓伝道に出ました。しかし、開拓伝道を始めると恐れが生じ、河原で必死に祈りました。そのとき詩篇2篇8節「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として」このみことばが与えられました。そして、開拓当初から15名の礼拝をもつことができたのです。洗礼もこれに似ています。自分の思いではなく、どんなことがあっても神様のみことばに立って生きるという決心をすることです。罪清められ、神の子どもされ、生まれ変わって歩むことができるのです。
 正しいこととして、イエス様ご自身も、バプテスマのヨハネによって洗礼を受けられました(マタイ3:13~17)。神様の義をいただき行うことは大切です。
 放蕩息子は、豚飼いをするまでに落ちぶれましたが、父のことを思い出し家へと帰った時、父は彼を「死んでいたのがよみがえった」(ルカ15:32)と言いました。そして、息子として彼を迎えました。バプテスマを受けた者はこの放蕩息子と同じようにキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえり、新しいいのちに生きる神の子どもとされたのです(ロマ6:4)。
 臆病者は神の国を相続することはできません。洗礼を通して、私たちは新しくされました。信仰を持って一歩前進することが大切です。その時に、弱さを覚えるかもしれませんが、弱さを覚える中にあっても主のみこころを行おうとする時に神様は御力を現してくださるのです。

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