「キリストの受難を思う」

高森基信師

テキスト:イザヤ53章
 受難週です。イエス様のたどられた受難を思う日です。イザヤ書53章には、救い主がどのような歩みをされるか預言されています。ユダヤ教の人たちは、今日もこの箇所を読まないと聞いたことがあります。それは明らかにイエス・キリストの生涯を示しているからです。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(3)」「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(4)」確かに、イエス様の生涯のうちに起こった出来事でした。
「罪を知らない方が私たちのために罪とされました。それはこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

イエス様の受けた苦しみ
〇恥の苦しみ
 十字架というローマの極刑を受けられました。「パッション」という映画でも表現されていたように、背中は動物の骨や金属のついた鞭で打たれ、皮が裂け、肉がえぐれ血まみれだったでしょう。
〇拒絶の苦しみ
 イスラエルの民から拒絶され、愛する弟子たちも彼を裏切りました。愛しているものから拒絶されることはとても苦しいことです。
〇肉体・精神的な苦しみ
 十字架というこの世で最も残酷な刑です。苦しみを長らえされるために考えられた刑でした。聖画などでは腰に布をまとっていますが、裸でかけられたと言われています。肉体は、血は乾き、皮膚が突っ張り、ウジがわき、臭いもひどかったことでしょう。想像を絶します。
〇たましいの極限の苦しみ
 罪の身代わりということは、神様からの断絶を意味します。霊的な死を意味するのです。神の御子であるイエス様がそのような状態に置かれたのです。
イエス様はあらかじめご自分の受難を知っておられた。
 マタイ16章21節にあるように、イエス様は生まれた時から、この受難の道知った上で歩んでこられたのです。また、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」と、完全な人として来てくださったイエス様の苦しみは、私たちが受けるべき苦しみでした。
イエス様の受難を日々思う
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)この十字架は信じる者にとってはイエス様の成就された「救い」です。イエス様は、受難週の時だけではなく、生まれた時から受難の杯を受けて来れました。私たちは日々このイエス様の受難を通して与えられた「福音」を覚え、永遠のいのちを覚えて歩んでいきましょう。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ書53:5)

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