将来と希望

エレミヤ書 29章10~14節

富高尚師

 今は、これまでに誰も経験したことの無いような時代を生かされているように感じます。しかし、歴史を見れば人の想像を絶するような悲惨な出来事が多々起こています。今日読んだ、聖書箇所もイスラエルの民が国を失い、バビロンに捕囚となった出来事を記しています。ところが、エレミヤを通してイスラエルの民にに語られた主の言葉をみると、このバビロン捕囚という出来事を起こしたのは「わたし」だと言われます。しかも、捕囚となったイスラエルの民に対して、バビロンの平安を祈るように言われているのです。捕囚となった「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ」(7節)と。そして、さらに神様が言われるのは、その捕囚の期間が70年ということです。(10節)このような状況にあるイスラエルの民に対してさらに神様は、これらの出来事は「わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(11節)と言われました。
 エレミヤを通して語られた、これらの主のことばは、今の私たちに何を教えているのでしょうか。絶望的な状況の中で、果たして自分たちが生きているかどうかもわからないような70年という長い年月の先に解決があるのだと聞かされても、おそらく絶望と不安しかりません。しかし、主が求めておられたのは、バビロンの地でいつもと変わらない生活でした。「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。」(29:5~6)ということだったのです。
 目の前の状況の変化に一喜一憂するのではなく、地に足をつけていつもと変わらない生活をしなさいということです。この状況が「いつまで続くのか」ということではなく、「その期間に何をするのか」が大切なのです。
 主の再臨を待ち望んでいたテサロニケの教会では、すでに主の日が来たかのように言われるのを聞いて落ち着きを失ったり、心を騒がせたりする人々いたようですが、パウロの忠告は「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(Ⅱテサロニケ3:12)というものでした。
 このような時、今、私たちに求められているのは、心を尽くして主を訪ね求め、真剣に神様との関係を築き上げることです。人に見せるための信仰ではなく、自分の家で神様と交わり、自分の家で神様の御心を悟り、自分の家でできることを実行しましょう。神様は、必ず「最悪」の状況を「最善」へと変えてくだいます。

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