私たちのために

富高美和師

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり~」(イザヤ書9:6)
 イエス様がお生まれになる約700年前に、預言者イザヤを通して語られた言葉です。その当時のイスラエルの民は、神様の目からみて「闇の中を歩んでいる民」(イザヤ9:2)でした。北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされ、民は散らされ、異邦の民が住み着くようになったのです。それゆえ「異邦の民ガリラヤ」と呼ばれるようになりました。なぜ、そのような裁きにあったのでしょうか?それは、民が神様と共に歩まなかった罪故です。
 「闇」とは何でしょう。「貧しさ」「病気」「苦しみ」「問題」ですか?そうではありません。聖書が示す「闇」は光なる神様がおられるのに、共に歩もうとしない、光を民が必要としていない、そのことを指します。光がないので、「闇の中を歩んでいる民」と呼ばれるのです。闇の世界の象徴が「バベルの塔」(創世記11:1~9)です。神様を必要としない人々が集まり、一つ心となって「名を上げよう」と言いました。それは暗闇の支配者である(エペソ6:12)サタンの心です。そして、ノアの洪水のように裁きにあって散らされるといけないからと言って天にまで届く高い塔を建てました。神様はノアに「もう洪水で滅ぼすことはしない」と約束されたのに。神様を必要とせず、自分の能力を誇る者は、間違った心、間違った判断をします。そして、現在のよう壊れた世界を作り上げてしまったのです。(便利な乗り物がオゾン層を破壊し、添加物が体を壊します。その他にも、人間が良いと思って作ったものが、後にストレスを生み出しています。)
 この壊れた世界で、多くの人が苦しんでいます。そして「神様はどうしてこのような苦しい目に合わせるのですか?」と嘆くのです。しかし、闇の中を歩むことを選んだのは誰ですか?人間です。「放蕩息子」のたとえがあります。弟息子は、父親から離れて自由になりたいと思いました。そして財産をわけてもらい父親から遠く離れたところで好き勝手に生活しました。しかし、財産が尽き、友達も離れ、家畜のえさで腹を満たしたいと思うほどに、落ちぶれてしまった時、彼は気づきました。自分がこのように「闇」の中にいるのは、光となって正しい道を示してくれるお父さんから離れてしまっているからだと。そして、彼が悔い改めて帰ると、父親は彼を抱きしめて「よく帰って来たね。」と喜んだのです。
 人間は、自ら闇の中を歩みました。しかし、滅びに至る私たちを見て、神様はあわれみ、愛するひとり子イエス様を救い主としてこの地に遣わして下さいました。私たちに責任を問うことなく、こんな「私たちのために」です。どれほどの愛でしょうか。
 イエス様が、宣教をはじめれたのは「異邦の民ガリラヤ」といわれた地です。イエス様は暗闇に覆われた世界に光となって来て下さいました。「天の御国は近づいた」と言って。(マタイ4:12~16)「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9:2)光なるイエス様が、永遠に私たちの王です。信じましょう。

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