忠実な教会には開かれた門

富高美和師
「またフィラデルフィア教会にある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。』(ヨハネの黙示録3:7~13)
 「聖なる方、真実な方」つまりイエス様がフィラデルフィア教会に対して語られることばを通して、私たちは神様がどのような教会を喜ばれるかを知ることが出来ます。イエス様が「ダビデの鍵(天と地のすべての権威)」を持っておられ、イエス様の権威によって御国の門が開かれます。
 イザヤ22章を見る時、エルヤキムという当時のユダ王国の王に仕える者の名が出来てきます。彼こそ、「ダビデの鍵」を任された者であり、ダビデ王から代々伝わる宝物蔵は、彼が閉じれば誰も入ることが出来ず、彼が開けると自由に出入りすることが出来ました。彼はなぜそのような大役を任せられるようになったのでしょうか。それは彼がユダ王国と王に対して「しもべとしての忠実さ」を持っていたからです。「その日、わたしは、わたしのしもべヒルキヤの子エルヤキムを召し、彼にあなたの長服を着せ、彼にあなたの飾り帯を締め、彼の手にあなたの権威をゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」(イザヤ書22:20,21)とあるように、彼は、誰かから脱がせられた長服を着るようになりました。その誰かは、同じように王に仕えていた「シェブナ」という人物です。エルヤキムもシェブナも見た目は同じように忠実に仕える者でした。しかし、シェブナは「あなたは自分のために、ここに墓を掘った。」(イザヤ22:16)と指摘されているように、すべてのことを「自分のため」にしていました。しかし、エルヤキムはすべてのことを「国と王のため」に行っていたのです。彼の忠実さは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして王を愛する」、そこから動かされたものだったので、彼は王に喜ばれ、大きなものを任されるようになったのです。マルコの10:42~45には御国の法則によってへりくだる者が高く上げられるということが書かれてあります。イエス様ご自身がそうであったように(ピリピ2章)。
 イエス様は、フィラデルフィア教会に対して「門を開いておいた」(黙示録3:8)と言われています。この教会は「少しばかりの力があって」とあるように、あまり大きな教会ではなく、地域にも大きな影響を与えてるような教会ではなかったようです。では何故でしょうか?それは「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった。」ことにありました。現に、イエス様を救い主と宣言し続けたことで殉教者も出るほどでしたが、彼らは神様のことばを守り続け、福音を伝え続けたのです。この教会の姿をイエス様は称賛され、「全世界に来ようとしている試練の時にはあなたを守ろう。」と約束して下さっています。教会に重要なのは、どれくらいの力を持っているかではなく、どれくらい神様のことばを守り、どれくらい忠実であるかどうかです。忠実な教会に、御国の門は常に開かれています。

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