祈りが満ちるまで

富高美和師

「~イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにして下さい。』~」
(マルコの福音書10:46~52)
 イエス様と弟子たち一行が、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムの向かっていると、バルテマイという目の見えない物乞いが道端に座っていました。
何故道端に?それは、神様の配慮によるものです。イスラエルでは昔から神様の命によって「貧しい人」「障碍者」「主人を亡くしたやもめ」に対し彼らが生きていけるように施しをするように定められています。ですから、施しをされるほうも「私に施しをすることは神の義である」という思いをもって堂々と施しを受けていました。この箇所ではバルテマイに焦点が当てられていますが、そこにいたのはバルテマイだけだったのでしょうか?
ほかの箇所ではバルテマイだけではなくもう一人目の見えない人がいたことが分かります。また、過ぎ越しの祭りはイスラエル民族にとって重要な祭りですから、大勢の人々がエルサレムに向かうと予想し、施されるチャンスを狙った人々がバルテマイのほかにも沢山いたに違いありません。しかし、何故バルテマイに焦点があてられたのでしょう。それは、多くの貧しい人が目の前を通る人に施しを求めていたのに対し、バルテマイはイエス様にだけに集中し「ダビデの子のイエス様!私をあわれんで下さい。」と叫び続けたからです。それは彼の心からの祈りでした。私たちも、誰に祈っているのか、そしてその方がどのような方かを知って祈ることは大切なことです。バルテマイはイエス様こそが救い主であり、イエス様だけが癒し主であることを御霊によって啓示されていました。ですから引き留められても彼は叫び続けたのです。祈りを引き留めるものがあります(自己中心、不信仰、サタン)。しかし、私たちは信仰をもって祈りが満ちるまで祈る必要があります。(エレミヤ書29:11~14)
 イエス様は立ち止まってバルテマイを招きました。バルテマイはまだ目は見えないのに、上着を脱ぎ棄て躍り上がってイエス様のところに来ました。
「イエス様の招き」と「私たちの願い」が一致する時、それが「祈りが満ちる時」です。神様は、私たちが祈りを捧げ続ける中で「神様の御心」と「私たちの願い」が一致するまで私たちを砕かれます(きよめ、悔い改め、自己中心から神中心)。そして祈りが満ちると、神様に御心と一致した私たちの願いをかなえて下さるのです。「『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」信仰とは「イエス様を愛する心」です。イエス様を愛する者は、神様の御心を行い、そしてイエス様に喜んでついて行きます(ルカ18:43)。
 バルテマイは、イエス様と共にエルサレムに向かい、そしてイエス様の十字架と復活を自分の目で目撃し、イエス様の証人となるのです。祈りが満ちるまで祈ると、神の国を体験します(エペソ1:17~19)。祈り続けましょう。

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