「キリストの苦しみ」

髙森基信師

テキスト:イザヤ書53章1~10節

 今週からは「受難節」です。キリストの復活までの日曜を含まない40日間のことです。クリスマスなどはメシア誕生の預言が注目されますが、イザヤ書にはメシアの受難についての預言もあります。クリスチャンには喜び平安が与えられていますが、このキリストの苦しみなしにそれらはありません。メシアであるイエス様がこのような苦しみを通られたということは、私たちにとっての励ましです。なぜなら、私たちが負っているあらゆる苦しみも、すべて主ご自身が知っておられ、あらゆる点で私たちと同じように試みにあわれた(へブル4:15)ので、神は私たちを憐れんで下さり、神の御心へと導いてくださるという信仰に立てるのです。クリスチャンでない人は救い主があざけられ、十字架にかけられるという愚かな教えを信じることはできません。当時、イエス様に従っていた弟子たちさえも、イエス様の受難の時に裏切り離れていったのです。しかし、その受難を通して、救いをもたらされたことを忘れてはなりません。

一粒の麦とは何か
「一粒の麦が地に落ちれば、豊かな実を結ぶ」(ヨハネ12:24)
イエス様の死によってもたらされる収穫を意味するみ言葉です。よく葬儀の時に遺族への慰めの言葉として使われますが、正しくは一粒の麦はイエス様ご自身であり、または御心に沿って死んだ人に使われるべき言葉でしょう。死を美化するのではなく、どんなに苦しく惨い死だとしても、そこに御心が行われているならば、地に落ちた一粒の麦として豊かな実を結ばせることができるのです。

人には理解できない方法
 神様のみこころが行われる時、それは人に理解できない方法であるのかもしれません。私たちは聖霊に満たされると順風満帆な人生が送れるようになると思いがちです。しかし、一粒の麦となったステパノは聖霊に満たされ、神の栄光とイエス様を見ましたが、石で打ち殺されてしまいました(使徒7:55~60)。しかし、それは神様のみこころでありました。そのことによってキリスト者への迫害が起こり、クリスチャンは散らされて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、されに地の果てまでキリストの証人となったのです。使徒の働き1章8節の言葉のとおり、全世界へ福音が宣べ伝えられたのです。受難節、主の御心は何か求め、苦しみの中でも働かれる主を求めましょう。

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