放蕩息子

高森博介牧師
イエス様の周りには、いつも罪人と呼ばれる人々(取税人、遊女など)が集まって来ました。すると、律法学者たちが「この人は罪人たちを受け入れて食事をしている」と文句を言い始めたのです。そこで、イエス様は3つのたとえ話をされました。一つ目は、100匹羊を飼っている羊飼いが1匹をなくしたなら、99匹を残していなくなった1匹を見つかるまで探し出し、見つけたら喜んで友達や近所の人たちを集めて「一緒に喜んで下さい」と言うでしょう、という話。二つ目は、女の人が銀貨10枚を持っていて、1枚をなくしたら部屋の明かりをつけ、家を掃いて見つけるまで注意深く探し、見つけたら友達や近所の人たちを呼び集めて一緒に喜ぶように言うでしょう、という話。これらは、一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にあるという意味が込められています。そして最後の話されたのが「放蕩息子」のたとえです。(ルカの福音書15:1~24)
 これは、ある人に二人の息子がいて、その弟息子が「私の受ける分の財産をわけて下さい。」と言って家から出て行き、放蕩の限りを尽くして、挙句のはてには財産を使い果たして悔い改めて帰ってくるというお話です。このたとえにはイエス様のどのような思いが込められているのでしょうか。
 この弟息子は、父のもとにいることに窮屈さを覚え、自由を求めて父親の目の届かない遠く離れたところに出て行きました。お金がある時は沢山の友達が寄ってきました。しかし、財産を使い果たした時には誰も寄り付かなくなったのです。落ちぶれた彼は、ユダヤ人が最も忌み嫌う豚飼いとなり、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどに情けない姿に変わり果てていました。その時、父のもとにいた時の豊かさを思い出し、悔い改めて父のもとに帰る決心をしました。奴隷にされても仕方ないと覚悟して帰りましたが、父親は彼の姿を見るやいなや遠くから駆け寄って来て彼の首を抱き、口づけしたのです。ボロボロになっていたにも関わらず、父親は怒るどころか憐れんで、彼に洋服を用意し、手には指輪をはめ、足に履物をはかせ、「息子」として受け入れてくれたのです。自ら父親を離れ、そして罪を犯し続けた汚れてた者でした。しかし、父親の愛情はどんな時にも変わらないということを知ったのです。父親は息子に「衣」を着せてくれました。それは受け入れたという証の新しい衣です。私たちも、かつては神様を認めず、神様から離れて罪の生活を送っていました。しかし、私たちが神様に立ち返って罪を告白した時、神様は私たちを受け入れて下さり、イエス様の十字架の贖いによって新しい衣、すなわち「義」の衣を着せて下さったのです。なんという恵みでしょう。
 イエス様は「わたしは正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。イエス様の愛は、どんな罪人であっても等しく注がれ、そして変えられた人々が聖霊の力によって弟子となっていくことを願っています。それがイエス様の人々への思いです。感謝しましょう。 

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