イエス様を覚えて

富高美和師
「~わたしを覚えてこれを行いなさい。~」(Ⅰコリント11:23~29)

 聖餐式は、イエス様のからだと血潮を覚え、記念する儀式です。
何故、聖餐式を行う必要があるのか?
それは、教会が「主を信じる者の集まり」だからです。人は皆自分の考え、また育った背景、自分の経験を持っています。10人集まればそれぞれの考えがあります。しかし、教会は「一つ」となる必要があります。そこで、一つのパンを裂き、一切れの種を入れないパンと、ぶどうで出来た液を飲むことで、イエス様のなされた素晴らしい十字架の御業を皆で共有し、そして同じ思いで「一致」するのです。だからイエス様は「わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言われました。「一致」した時に神様が喜ばれる教会の働き(礼拝、交わり、宣教)を前進させることが出来ます。
 イエス様が十字架にかかれたのには理由があります。それはすべての人が聖なる神様に背を向け、自分中心に歩んで来ました(神様に対する反逆=罪)。しかし、私たちの背きの罪の代価を払うために御子イエス様が身代わりに罰を受け裁かれ、十字架にかかって下さったのです。それゆえ、自分の罪を心から悔い改めてイエス様を信じる者には「神の子」となる特権を与えて下さいました。(ヨハネの福音書1:12,Ⅰヨハネの手紙4:7~11)神様の一方的な愛を知る時に、私たちは感動し感謝の心に溢れます。しかし、いつしか時が流れ、感動、感謝の思いが薄れ、恵みを受けていることに「慣れ」が生じてくるのです。「時間がきたから礼拝にいこう。」「奉仕、疲れたな。」など、どうしてこのような思いが出てくるのでしょうか?それは、恵みを忘れてしまったからです。
 聖餐式は、ただの儀式ではなく、形式的なものでもなく、私たちの心を尽くして感動し、感謝する「恵みを思い起こす時」です。一切れのパンはイエス様の裂かれた体(イザヤ53:5)を現わし、ぶどうで出来た液(ぶどう酒、あるいはぶどうジュース)はイエス様が流された血潮を現わします。私たちを救うためにどれだけの犠牲が払われたのでしょうか。息子が血を流し、死に渡された日を親は忘れることが出来るでしょうか。私たちは、決して十字架の死を忘れてはならないのです。イエス様を通してでなければ誰一人天の父のもとに行くことは出来なかった、イエス様がご自分を犠牲にしてまで愛を示された、この愛を決して忘れてはなりません。
 私たちが聖餐にあずかる時、それは決して悲しい時ではありません。なぜなら、イエス様は3日目に復活され、今も生きて共にいて下さるからです。
心から感謝し、心から喜び計り知れない愛と、全能なる力を味わいます。
イエス様が来られる日まで、イエス様を覚え、この愛を伝えていきましょう。

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