すべての人々に与えられる賜物

富高美和師
「~すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」~(使徒の働き2:1~21)
 イエス様は、私たちの罪のために十字架につけられ、そして死を打ち破り3日目に蘇られました。それから40日にわたって弟子たちに現れ、神の国ことを教えられました。いよいよ天に昇られる時「父の約束(聖霊)を待ちなさい。聖霊によるバプテスマを授けられるから。」と言われました。そして、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と励まし、使命をお与えになったのです。
 何故、聖霊のバプテスマ(浸される)が必要だったのでしょうか。
イエス様と共にいる時、弟子たちは力強く歩むことが出来ました。しかし、イエス様が十字架にかかり自分たちの側からいなくなると、彼らはたちまち弱り果て、恐れ、隠れるようにして暮らしました。イエス様が天に昇られてからは、彼らは見えないものを見えると証していかなくてはなりません。イエス様は確かによみがえり、今も生きて働かれるお方だと確信をもって語り続けなければなりません。イエス様が見えなくなった弟子たちは、本当の意味で信仰に堅く立ち、しっかりと歩む必要がありました。その為に、内にいて励まし、助け、そして確信を与えて下さる聖霊は必要不可欠でした。
 彼らが一つところで祈っていると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまりました。そして聖霊がいっぱいに満ち臨在された証拠として彼らの口から異言(神の国のことば)が出てきたのです。そして、他国から来たユダヤ人たちが彼らの異言を「神の大いなる御業を語っている」(使徒2:11)と証言しています。さて、異言にはどのような意味があるのでしょう。
パウロは「人に話すのではなく神に話す。自分の霊で奥義を話す。」(Ⅰコリント14:2)と言っています。これは知性によって祈る祈りではなく、御霊によって祈る祈りです。霊で祈るので、直接霊である神様に流れていく特別な祝福です。空中の支配者であるサタンもその祈りを撃ち落とすことが出来ません。この異言の賜物が私たちを成長させ、徳を高めるものとなるのです。
霊的な神様との交わりを深めれば深めるほど、私たちは御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を実らせることになるからです。イエス様のように聖霊様が変え続けて下さるという神の国の民としての祝福です。どのように祈れば分からない時も聖霊様が必要なことをとりなして下さいます。なんと心強いことでしょうか。その祈りによって祝福を体験し、祈りの生活へと導かれていくのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりその人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7:38)聖霊に満たされ、大胆に福音を伝えましょう。

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