和解の福音

富高尚師 Ⅱコリント 5章15~19節      
「新しく造られた者」とは、もちろん、イエス様によって救われた者ですが、それは「救い」だけの問題ではありません。これまで私たちは、福音を「救い」だけの、狭くて、小さなものと考えていたかもしれません。しかし、イエス様が語った福音や弟子たちが伝えた福音は、「御国の福音」であり、「救い」だけにとどまらず、もっと大きくて壮大なものであり、神様のご計画とみこころの全体を告げ知らせるものでした。
私たちが救われ、新しくされたのは、「自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる者」(5:15)となるためであり、「肉に従て人を知ることも、肉に従ってキリストを知ることもしない者」(5:16)となるためなのです。キリストによって「新しくされた者」は、人を外見で判断したり、人の言葉をそのまま、その人の言葉として受け取ることはしません。その良い見本をイエス様ご自身に見ることができます。イエス様が十字架に架けられたとき、イエス様はローマ兵に対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)と言われました。また、ステパノも、石を投げつける人々に対して、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)と叫びながら、イエス様によって新しく造られた者として、最初の殉教者となりました。
また、「新しく造られた者」とは、キリストによって神と「和解」させていただいた者です。普通、私たちの知る「和解」とは、争いの当事者が、お互いに譲歩して、争いをやめる約束を交わすことです。しかし、神による「和解」は、背きの罪を人々に負わせません。(5:19)すべての責任を神様が負われ、その代価を、ひとり子であるキリストに負わせられたのです。ですから、私たち「新しく造られた者」には、神様が私たちにしてくださった和解と同じ「和解の務め」が委ねられています。
もちろん、国や人種の間にある大きな問題を、すぐに私たちが解決するいうことではありません。私たちに委ねられているのは、ごく身近な問題としてある夫婦や親子、職場や学校の人間関係の中に、神様の一方的な恵みによって和解させられた者として、「和解のことば」を宣べ伝えていくことなのです。
私たちは、赦されるはずのない者でしたが、赦されました。自分では到底償うことのできない罪の代価を、無条件で払ってもらいました。これは、間違いなく救いの恵みですが、決して救われて終わりではなく、救われた者にしか成し得ない務めが和解です。私たち新しく造られた者は、聖霊様の助けによって、この和解の務めを神の恵みの福音として果たしてまいりましょう。

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