心が主と全く一つになる

富高尚師 Ⅱ歴代誌 14章9節

私たちの信じている神様が見ておられるのは、私たちの行いではありません。その心です。もちろん、行いも大切ですが、どんな立派な行いをすることよりも、その行動のすべての動機、心を見ておられ、主のみこころと同じ思いの人に、ご自分の力を現わしてくださるのです。

それは、私たちがどこにいようとも、どんな状態であろうとも問題ではありません。主は、全地を隅々まで見渡し、探しておられるのです。

預言者サムエルは、サウルに代わって、イスラエルの次の王となる者に油注ぐために、ベツレヘムのエッサイのところに遣わされました。サムエルは要件は告げずに、エッサイを祝宴に招きましたが、その中にダビデはいませんでした。それで、サムエルはエッサイの長男エリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油注がれる者だ」と思いました。(Ⅰサムエル16:6)しかし、主がサムエルに言われたのは「人はうわべを見るが、主は心を見る。」ということでした。

その時ダビデは、サムエルの開いた祝宴に呼ばれずに、羊の番をしていた(Ⅰサムエル16:11)のですが、わざわざ呼び出されて、主はサムエルにダビデに油注ぐように命じました。主はサムエルをエッサイの家に遣わす時から、すでに「わたしのために王を見出したから」(Ⅰサムエル16:1)とイスラエルの次の王はダビデだと決めておられたのです。

心が、「主と全く一つとなること」は、父なる神様の願いであると同時に、子なるイエス様の願いでもあります。イエス様は「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。それは父と同じ思い、同じ心でなければ、父のみこころを行うことはできないからです。イエス様は、十字架にかかって死ぬために生まれて来られました。それは、私たちの罪のためであり、人間と父なる神様との関係の回復のためです。私たちが神の子となり、永遠のいのちを得るためです。そのためには、十字架を避けて通ることはできません。父のみこころを実現するために、「人としての姿をもって現れ、自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:7~8)

イエス様は、今、私たちにも父とその心が全く一つとなることを願っておられます。それは、「すべての人が一つとなることで、世が真の神を信じ、世が真の神を知るため」です。(ヨハネ17:21~23)

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