いのちのパン

富高尚師 ヨハネの福音書 6章35節

イエス様を捜して、多くの群衆がやって来ましたが、彼らの目的は、イエス様を信じたからではなく、自分の空腹を満たすためのパンを求めて来たのです。イエス様の側にいれば、いつでもパンが与えられるからという考えです。それは、前の日に、「五つのパンと二匹の魚」でおよそ五千人の人たちが、食べて満腹し、残ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになるという奇跡の後だったからです。

イエス様は、群衆に対して二つの食べ物があることを話されました。ひとつは、「なくなってしまう食べ物」で、もう一つは「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」です。一方は「物質的なパン」で、もう一方は「霊的なパン」と言えます。イエス様を信じ、従うことは、いつも永遠のいのちに至る、霊的な食べ物である、神のみことばによって生きる信仰生活です。しかし、物質的なパンのためだけに働く生活は、すべてが自分のため、自分の満足、自分の欲求を満たすためだけの働きとなり、自己中心的な信仰生活となってしまいます。どんなに多くの時間を費やし、労力を費やしても、それらはやがて「なくなってしまう」ものです。

私たちは、毎日の生活の中で、どれだけの時間を「いつまでもなくならない食物」のために使っているでしょうか。「キリストのために」犠牲を払う時間は、「キリストのための私」という信仰生活を行うことです。それこそが、永遠のいのちに至る食べ物なのです。神様のために働くことには、多くの犠牲が伴います。自分のための時間を削り、自分のしたいことよりも、神様と共に過ごす時間を意識して作らなければなりません。しかし、その神様との生きた交わりの関係、同じ時を過ごすこと、それこそが、「永遠のいのち」なのです。

私たちは、イエス様が、神から遣わされた生ける真の神であることを信じて救われました。しかし、信じて終わりではありません。いつもイエス様との交わりを持ち、イエス様から「いのちのパン」をいただかなければなりません。イエス様ご自身が「いのちのパン」だからです。イエス様のもとに来れば、決して飢えることがなく、また、決して渇くこともありません。

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