荒野の教会

川端寛海師(出エジプト35:1〜29)

 すべては出エジプトから始まっていると言っても過言ではありません。何故ならイスラエル人は、この出エジプトが起こる前は、ただの奴隷だったからです。神様は、「奴隷」であった民を選び、荒野に連れて行きました。「エクレシア」(ギリシャ語で教会の意)という言葉はよく知られていますが、当時のユダヤ人たちの第一言語はヘブライ語ですから、もともとは「カハル」(荒野の教会の意)というヘブライ語が使われており、エジプトの奴隷から解放されて、荒野で集まった会衆のことを指します。これが最初の教会です。神様は、なんのためにイスラエルの民を奴隷状態から救い出されたのか。それは、荒野で彼らを教会とし、自分の支配に移し、そこで教育し、偉大なる民とするためでした。イエス様も、それと同じように、過越し(出エジプトを祝うお祭り)に十字架にかかられ、罪の奴隷だった私たちを贖いによって解放し、「自由」を得させて下さいました。イスラエルでは、今でも過越しの祭りを祝いますが、その祭りのテーマは「自由」です。

神様が与えて下さった自由が、どのようなものかということを、「出エジプト35:1〜29」に見ることが出来ます。イスラエルの民は、長年の奴隷としての性質が染み込んでいる状態でした。ですから、荒野に出てしばらくすると「エジプトの奴隷生活(人に支配されている状態)に戻りたい」と言い始めました。このような民が、出エジプト35章を読む時に、変わり始めていることが分かります。この箇所で何度も出て来ている言葉が「心動かされて(感動して)、心から進んで」という言葉です。自由とは、人に支配されるのではなく「自ら、心から感動してするもの」です。聖書の自由とは、「組織から出ること」ではなく、「人に支配されなくなる(人によく思われたい、人に愛されたいという思いから解放される)」ことを言います。イスラエルの民は荒野で律法を受けました。そこから、彼らは人ではなく神様に支配される者へとなります。荒野には何もないので、何も出来ない状態になります。しかし、律法が与えられることによって、彼らは律法という枠の中で自由に行動することが出来たのです。神様への感謝、律法が与えられたことへの感謝を少しずつ表していったのが35章です。彼らは、自分で出来ることを自ら進んで捧げ始めました。彼らは何もない荒野で感謝をすることが出来ました。これが「自由」です。

モーセの「だれよりも謙った姿勢」は、リーダーとして模範的でした。またソロモンが王になった時に「それゆえ、しもべはあなたの選んだ民の中におります。」と祈りました。その中心には「神様だけが王である」という信仰がありました。これが群れを治めるリーダーの心です。リーダーは、民の中の一人であるという自覚が必要ですが、そのリーダーには神様が「権威」を与えて下さっており、権威を軽んじれば呪われる(創世記9:21〜29)ことが聖書を見ると分かります。リーダーは民の中の一人であるので完璧ではありません。しかし、神様が決めておられるので皆が「権威」を敬います。

神様によって「自由」が与えられている、そして権威を敬うことを大切にする。これが荒野の教会であり、神様が望んでおられる真の「教会」です。

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