互いに励まし合う

富高尚師 Ⅰテサロニケ5章1~11節       

「主の日」とは、イエス様が再び来られる再臨の日のことですが、この日のことをテサロニケの人々はよく知っているでしょうとパウロは確認しています。パウロがテサロニケの教会にいたのは、たった3週間でしたが、その短い期間にもかかわらず、主の日については、何度も語り教えていたのでしょう。そして、その日が突然やってくることも皆に語っていました。なぜなら、そのことはイエス様ご自身が教えておられたことだったからです。(マタイ24:32~44)

もし、主の日が突然、盗人が夜やって来るように襲ったとしても、あなたがたは、光の子ども、昼の子どもなので、何も心配することはないと励ましています。光の子どもや昼の子どもとは、神様のことばを守り、従っている者たちであり、神様のご計画を知っている者たちのことです。神様のことばやご計画を知らない者にとっては、突然のことでしょうが、知っている者にとっては、神のことばの成就であり、ご計画通りのことが起こったにすぎません。ですから、慌てることはないのです。

ただし、その日に備えて、「目を覚まし、身を慎んでいましょう」とパウロは勧めています。「身を慎む」とは、「しらふ」でいることです。酒に酔った者は、どんなに神のことばを理解し、神のご計画を知っていたとしても、自分を忘れ、突然の出来事に対して、正しい判断や正しい行動ができなくなるからです。この世の終わりの時、主の日がますます近くなった今、私たちは「しらふ」でい続けなければなりません。それは、昼の者として、「信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶって」(Ⅰテサロニケ5:8)いなければならないということです。信仰の行いと一致によって、キリストの愛を実践する者であり、私たちが神を愛したのではなく、まず、神が私たちを愛し、御子を与えて下さったという救いの土台にしっかりと立って主の日まで忍耐を持って身を慎むのです。

しかしこの世は、私たちを酔わせ、夜の者、闇の者にしようと必死に働きかけてきます。お酒だけではなく、お金や地位や名誉、あらゆる情欲で誘惑してくるのです。私たちが主の日まで一人で目を覚まし、身を慎んでいることは至難の業です。ですから、聖書は「互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」(Ⅰテサロニケ5:11)といっているのです。

コメントを残す

コメントを投稿するにはログインしてください。