生ける水の川

富高尚師 ヨハネの福音書 7章37~38節

イエス様が立ち上がって、そこに集まった群衆に対して、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と大声で叫ばれました。それは、仮庵の祭りの終わりの大いなる日でした。仮庵の祭りは神様がこのように行いなさいと定められた秋の例祭です。(レビ記23章)秋の収穫を祝う祭りでもありますが、その意味と目的は、「仮庵」(テント)の中で7日間を過ごし、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が荒野での40年間、神様の守りと恵みの中にあったことを決して忘れることのないようにするためでした。

イエス様の時代の仮庵の祭りには、神殿に柳の木を切って来て立てかけていました。しかし、柳の木はすぐに枯れてしまうので、イスラエルの民は毎日、川岸から新しい柳の木を切って来なければなりませんでした。荒野ではもちろん水が無くては生きていけません。柳の木が水を求めているように、イスラエルの民も水を求めて神様に、「ああ主よ、どうか救ってください。」(詩篇118篇25節)と祈り求めたのです。決して渇くことのない、いのちの水を与えて下さるお方が目の前にいたのにもかかわらず。

イエス様は、その水を「だれでも渇いている者」に与えると言われました。本来、神殿の内庭にはだれでも入ることができません。入ることができるのは、ユダヤ人の男性だけです。しかし、一年に一度だけ、「祭りの終わりの大いなる日」だけは、異邦人でも、女性でも、だれでも入ることができました。ですから、すべての人に、イエス様の与える水を飲む機会が与えられていたのです。イエス様の与える水を飲むとは、イエス様がメシアであり救い主であることを信じるということです。この世の物で渇きを潤すこともできますが、それは一時的でまたすぐに渇きます。しかし、イエス様の与える水は、決して渇くことがなく、その人の心の奥底から溢れ流れ出るようになるのです。(イザヤ55:1~3)

また、イエス様が与える水を飲む者は、自分自身が潤うだけでなく、ほかの人を潤すことのできる人、祝福の泉となります。一人の救われた者から流れ出ている水はわずかな量かもしれません。それが他の人にどんな影響を与えているのかもわからない、そんなちっぽけなものに思えるかもしれません。しかし、そのいのちの水が、永遠に溢れ続けるなら、それはやがて川となって人が泳げるほどになるのです。それは、すべての人、すべての物を生かす、神の国の祝福に満ちた姿なのです。(エゼキエル47:1~10)

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