信仰をもって(マルコの福音書11章20~25節)

「~だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。」

 ここには、イエス様がいちじくの木を呪われた記事が書かれてあります。
 イエス様はエルサレムに入城された後、ベタニアに出て行かれました。そしてベタニアを出た時、イエス様は空腹を覚えられました。すると、遠くに葉の茂ったいちじくの木が見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれましたが、そこに行くと、葉のほかは何もありませんでした。いちじくのなる季節ではなかったからです。すると、イエス様はこのいちじくの木に向かって、「今後、いつまでも、だれもおまえの実をを食べることがないように」といって、そのいちじくの木を呪われました。弟子たちはこのことをしっかり聞いていました。翌日の朝、そのいちじくの木を見ると、なんと「根まで枯れていた」のです。
 この記事を見るとき、特に日本人は汎神論的な思想を持っていますので、イエス様のされた事が理解できないで、なんと冷たい方なんだとつまずく人がいるかもしれません。
 しかし、冷静に考えてみると、イエス様は初めからいちじくの木に実がなっていないことはご存じだったはずです。他の聖書の箇所をみると、そのことが分かります。
 同胞でありながら同じユダヤ人に軽蔑され仲間はずれにされていたザアカイが、飢え乾いてイエス様に一目お会いしたいと木に登っているとき、初めて会った彼を「ザアカイ」と名前で呼ばれました。また、ナタナエルがいちじくの木の下で祈っている姿を直接ごらんいなっていなかったのに、初めてナタナエルにお会いした時、「わたしはピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」と言われました。どんなときにもイエス様はすべての事をご存じでした。
 では、なぜイエス様はいちじくの木を呪われたのでしょうか。それは、いちじくの木を通して神様の栄光を現わすためです。イエス様が語られることばには力があり、権威があります。そして、すべてはそのおことばの通りになります。ふつう、木を切っても翌日にその木が完全に枯れてしまうことなどありえません。でもこのとき、いちじくの木は「根まで枯れていた。」のです。このことを知った時、弟子たちはイエス様に神様の栄光を見たのです。
 私たちも、全能の神様を信じて祈るとき、神様はご自身の栄光のために、必ずその祈りを実現に至らせて下さいます。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる。」のです。 大切なことは、あきらめずに祈り続けることと、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」という神様の約束のことばにいつも立つことです。

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