主を求める時に(マタイ8章1~4節)

 神様の御言葉は、昨日も今日もいつまでも変わらず真実で、私たちに力を与え、いのちを与えます。
 神様の御言葉は素晴らしいのに、何故、私たちの人生に辛く悲しい出来事があるのでしょうか。
 マタイの8章には一人のらい病人が登場してきます。当時、祭司によってらい病と宣告された人は、人里離れた所で隔離され、一般の人との交わりを禁じられていました。ところが、ここの箇所では、らい病人が群衆にまぎれ、イエス様の身元にひれ伏したとあります。共感福音書であるマルコの福音書を見ると、彼は全身らい病におかされていたことが分かります。レビ記には「全身がらい病におかされている人はきよい」(レビ記13:13)と判断されていました。ですから、彼は社会復帰が出来ました。しかし、らい病にかかっていることには変わらず、犯された皮膚からは悪臭が漂い、人から敬遠される生活を送り、人々の中で生活しながら、孤独感に陥っていたことでしょう。
全身をらい病に覆われた彼は、失望の中にいました。しかし、彼はユダヤ人で、全能の神様を知っていました。彼の心のただ一つの光、それは神様に対する信仰だったのです。今でこそ、らい病は直る病気ですが、当時は不治の病とされていました。彼は、切なる祈りの中、必死にイエス様に癒しを求めました。その所にイエス様は来て下さり癒しを与えて下さいました。これが真理です。
 私たちが人生のどん底に陥った時、頼るべきお方はただ一人、神様だけです。私たちが多くの問題の中で、どうすることも出来ない状態に陥った時、あなたが真剣に神様に助けを求めるなら、らい病が全身を覆い、それが「きよい」とされたように、主にあって私たちもきよいとされ、神様の完全な癒しと解放を受けることが出来るのです。
自分の能力も気力も消え失せ、弱さの中で自分の汚れや無力さを認め、どこにも頼るところがなくなった時に、主が来て下さるのです。 イエス様は生ける神様です。神様は、どん底から抜け出す力を私たちに与えて下さいます。自分の力で、らい病をきよめることが出来なかったように、自分の力ではどうすることも出来ない問題や試練が私たちにはあります。しかし、イエス様は人には出来ないことがお出来になる方です。らい病をきよめ、新しい人生を与えて下さったお方は、あなたの「出来ない」ことを「出来る」ようにして下さり、祝福を増し、素晴らしい人生を与えて下さいます。様々な問題が起こった時、また試練を通らされる時、らい病人が必死に叫び求めたように、私たちも真剣に神様に助けを求める必要があります。もし、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を求めるなら、神様は必ずその叫びに答え最善へと導いて下さいます。私たちが試練を通る時、それは私たちが真剣に神様に近づく時なのです。神様に近づくたびに私たちは神様の御言葉の素晴らしさを本当の意味で知ることが出来るのです。

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