「あなたはどう読んでいますか。」(ルカの福音書10章25~37節)

 ある律法の専門家がイエス様をためそうとして質問しました。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と。また彼は、自分の正しさを示そうとして(29節)更にイエス様に「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と質問を続けます。
 聖書は、情報ブックとして読んだり、自分の正しさや、自分の行いが神様に喜ばれているかをチェックするためだけに読むものではありません。聖書は、私たちがどのような姿勢や態度で読むか、神様からの語りかけをどのように聞くのか、それをどのように受け止めるかということを意識しながら読むことが大切です。
 残念ながら、この律法学者は自分の正しさを示そうとして神様の言葉を読んでいました。当時のユダヤ教では、人を「仲間と敵」に分けて考えていました。ですから、マタイの福音書5章43節に「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」とあるように、自分の同胞さえ愛していればそれで正しいのだという考えが常識でした。
 私たちも、物事を二つに分けて考えがちです。その方が単純で分かりやすいからです。でも、イエス様は私たちが持っている常識や固定観念とかの枠組みの中に留まることのないようにとチャレンジされます。イエス様はあえて、それを破るようなことを言われます。マタイの福音書5章44節では、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃいました。このような教えに当時の律法学者たちは非常に驚きました。おそらく、ここでイエス様に質問した律法学者もその一人だったのでしょう。ですから、彼は「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と質問したのです。それは、彼が当時の教えや常識に縛られて、そこから抜け出せないでいたことを示しています。
 イエス様は、例え話から私たちの心に「かわいそうだ」という憐れみの心が起こったら、世の中の常識や習慣とかにとらわれず行動しなさいと教えておられるのです。ここでサマリヤ人は特別なことをしたわけではありません。自分に出来ることをしただけです。また、すべてを自分で負わず、協力者(宿屋の主人)を求めて事を行いなさいと教えておられます。「私の隣人とは、だれのことですか。」と人間を隣人と敵とに二つに分ける事を、神様は望んでおられません。だれが私たちの助けを必要としているのかとか、だれがそれにふさわしい人なのかを考えるのではなく、「あなたも行って隣人になりなさい。」と神様は私たちにチャレンジしておられるのです。
 この例え話に出てくるサマリヤ人は、イエス・キリストのひな形だと言われます。なぜなら、イエス様こそが本当の意味で私たちの隣人になって下さったからです。私たちが傷つき、倒れているところに、また本当の救いを必要としている私たちのところにイエス様は来て下さいました。そして究極の隣人となって下さり、私たちの癒しのために、救いのために、解放のために、私たちが幸せになるために十字架にかかって死んで下さったのです。神様は今日、あなたに「あなたも行って隣人になりなさい」と語っておられます。

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