洗礼について(マタイ3章)

<水のバプテスマ>
 「悔い改めなさい!天の御国が近づいたから!」
ヨルダン川でバプテスマのヨハネが叫ぶと、続々と人々が集まりました。そしてヨハネによって悔い改めに導かれ、沢山の人が自己中心から神中心の生活を送る決心をし、洗礼を受けたのです。このヨハネは、イエス様が来られる前に遣わされた預言者で、洗礼を授けながら、「イエス様こそ救い主なる神である」と宣言していました。
 そのところにイエス様が来られました。そして、ヨハネから洗礼を受けようとされたのです。当然、ヨハネは自分こそイエス様から洗礼を授けてもらう立場であることを言い、拒みましたが、イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するには、わたしたちにとってふさわしいのです。」と言われ、ヨハネはそれを承知しました。ヨハネにとっては、どうしてイエス様がそのようなことをなさるのか理解出来ませんでしたが、後になって、イエス様がご自身を通して模範を示して下さっていたということを知ることが出来るのです。
 イエス様がバプテスマを受けて水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下ってイエス様の上に来られるのをご覧になりました。また、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と神様の声が聞こえたのです。
 バプテスマを受けるということは、天を開くことです。そして、新しい神の国を見、霊的な目が開かれることです。イエス様は、その後御霊に導かれて荒野に行きますが、私たちも聖霊様に導かれ、信仰生活を歩むことが出来ます。聖霊様は、いつも私たちと共におられ、正しい道へと導いて下さいます。そして、神様が「これはわたしの愛する子」と語る声が天から聞こえたように、私たちにも語りかけて下さるのです。ですから、神様のご支配の中にいるという確信が得られ、恐れが消え去るのです。神様は、今日も「あなたを愛している」と語って下さっています。愛は、信仰生活の土台です。ですから、この愛の確信がないと信仰生活は揺るぎます。しかし、洗礼を受けて聖霊を受ける時、揺るぎない確信が与えられるのです。
 洗礼は、十字架の愛の証です。イエス様の十字架のあがないによってすべての罪は赦されたのです。
 また、洗礼は、神様への誓いです。「バプテスマは、肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・」キリストの復活によるのです。」(第一ペテロ3:20、21)
 イエス様は「洗礼」をお命じになりました。「それゆえ、あなたがたは行って~父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け~」(マタイ28:19、20)
 私たちは、洗礼を受けることによって、キリストと共に死に、キリストと共に復活し、新しい歩みをすることが出来ます。(ローマ6:4)そして純粋な御言葉の乳を持って成長していくのです。(Ⅰペテロ1:23~2:2)聖霊様と共に、証ある生活を送りましょう。

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