「神様の時」(ルカの福音書1章1~17節)

 ザカリヤは祭司で、その妻エリサベツは不妊の女でした。彼らには子がなく、二人とも年をとっていました。(7節)これは寂しいことです。当時は子どもが与えられていることが神様からの祝福の証でした。ですから、彼らも子どもが与えられるように切に願っていたことでしょう。また、ザカリヤは祭司でしたので、日々の生活の中で、神様からの祝福をいただいている者だということを証するためにも子どもが欲しかったでしょう。子どもがいないことが彼らの悩みであり、心の痛みだったのです。
 しかし、神様は彼らの祈りをちゃんと聞いておられました。ザカリヤがくじで選ばれ、神殿に入って香をたく務めを行っているとき、主の使いが現れました。そして御使いは彼にエリサベツが男の子を産み、その子がどのような使命を持った子どもかを告げます。17節に「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、・・・」とありますが、これはマラキ書4章6節にある預言です。この箇所から、世の終わりのとき、神様が遣わす預言者こそ、ザカリヤの子ども、バプテスマのヨハネであることがわかります。
 しかし、ザカリヤは子どもが与えられるように祈っていたにもかかわらず、そのことを信じることが出来ませんでした。(18節)彼は御使いのことばを信じなかったので、おしになってものが言えなくなってしまいます。そして、御使いは彼に「私のことばは、その時が来れば実現します。」と伝えました。
 神様のことばは、神様の時が来れば実現します。世の終わりのとき、再臨の時、それは神様の時です。マタイの福音書25章の花婿を出迎える愚かな娘たちが、自分で時を決め、余分な油を準備しておかなかったために失敗したように、私たちも、自分の時を持ってはなりません。自分の時ではなく、神様の時があります。ザカリヤとエリサベツも年をとって子どもが生まれる望みが無くなったと自分で時を決めてしまいましたが、その時が神様の時でした。私たちも失望し苦しみのどん底に落ちてしまった時、そこで諦めるのではなく、その時から神様の時が始まるということを知り、信仰によってそのことを受け止めなければなりません。神様が語られたおことばはその時が来れば必ず実現すると信じて事を行う時、そこに神様の栄光が現され、私たちの想像を超えた素晴らしい神様の祝福が備えられています。私たちは、信仰によってそれを受けとりましょう。

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