「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20章19~23節)

「イエス様がよみがられた」ことを受け入れることは、まさしく神様の業です。しかし、そのことは既にイエス様が生まれる750年前にイザヤによって預言されていたことでした。
「~しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。~」(イザヤ53章)
 私たちは、まことの神様から離れ、自分勝手な道を歩む存在でした。しかし、神様は、罪の生活から私たちを救うために人となってこの地上へと降りて下さり、すべての罪と痛みを背負い、十字架にかかって下さいました。
 イエス様が十字架にかかれらた後、弟子達はユダヤ人を恐れ隠れていました。そこに、よみがえられたイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように。」と語られました。そしてその手とわき腹を彼らに示されたのです。彼らは主を見てこの上も無く喜びました。イエス様はもう一度言われました。「平安があなたがたの上にあるように。」 それまで、イエス様の十字架の意味を理解することの出来なかった弟子達は、恐れと不安の中にいました。しかし、イエス様が現れ、神様の御心を知った時、彼らの心にようやく平安が与えられたのです。
 私たちの信仰生活の中で、問題に直面するときでも、もしそこで神様の御心を知ることが出来れば、目の前の状況が変わらなくても、私たちの心は平安で満たされます。なぜなら、神様の御心は私たちに力と希望を与えるものだからです。
 イエス様は、弟子達に「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と命じられました。
 何故イエス様はこのようなことを言われたのでしょうか。それは、人間的な恐れを断ち切るため、また理解できない聖書のことばの真理をはっきりと理解するため、またキリストの証人となるためでした。
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
「聖霊」を受ける時、イエス様をはっきりと知ることが出来ます。それは、噂や頭だけで理解するような「イエス様について」知るのではなく、聖霊によって、また体験によって「イエス様ご自身を知る」ということです。
 聖霊を受けて祈る祈りは確実に天に届きます。イエス様は、地上で罪を赦す権威を私たちに与えられました。(ヨハネ20:23)私たちが聖霊に導かれ、イエスの御名によって行うことは、天につながれています。聖霊を受ける時、信仰によって神の権威を行使することが出来るのです。イエス様は「平安があるように。」と言われます。
神様の御心を知る時、私たちはどのような状況の中にあっても、平安が与えられます。そして、信仰によって神様の業を行うことが出来るのです。神様はそのような働きへと私たちを導いて下さいます。

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