目をさまして祈る

「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
                  (マタイ26:26~54)
 この箇所は、イエス様が十字架のことを預言され、聖餐の後に、弟子達と共にゲッセマネに行き、祈られた時のことです。
 イエス様は、彼らに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょにめをさましていなさい。」と言われ、少し進み、ひれ伏して祈りました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのようになさってください。」
 私たちと同じ肉体を持っておられたイエス様が、十字架の苦しみを思うときに、出来るならば避けたいと思うのは当然のことでした。しかし、イエス様は、自分の思いではなく神様の思いを優先されました。
 苦しい時、そこを避けたくなるのは、人間の本性です。誰もが苦しみなど通りたくないと願っています。ペテロは、イエス様に「たとい全部の者があなたのゆえにつまづいても、私は決してつまずきません。一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知れないとは決して申しません。」と言ったにも関わらず、キリストの名のゆえに苦しみが自分に降りかかりそうになった時、彼は「私は知らない。」と三度も言い、イエス様を呪ったのです。それは彼の人間的な弱さでした。 私たちにもこのような弱さがあります。教会(イエス様の存在を強く感じる)にいるときは、信仰を持つことが出来る、でもいざ教会から一歩出た時(世の中)、その信仰が弱くなり、時には世に流されてしまう。私たちは外に出て行く時、祈りによって強めなければなりません。イエス様も十字架にかかられる前、このゲッセマネで必死に祈られ、備えの時をもったのです。
 イエス様が祈られている間、弟子達は眠ってしまいました。イエス様は三度も彼らに「誘惑に陥らないように目をさまして祈りなさい。」と言いました。ここでイエス様は肉体の弱さを指摘し、また霊的な強さの必要性を弟子達に教えられました。これはとても大事なことです。私たちは、常に祈りの中で霊的に強められ、霊の目を開いていないと、肉体の弱さに悪魔がつけこみ誘惑してきます。正しい判断、正しい行いが出来なくなるのです。ペテロは、群衆がイエス様を捕らえようとしたとき、感情が先立ち、大祭司のしもべの耳を剣で切り落とすという行動をとってしまいました。私たちも気をつけなければなりません。祈りが十分になされていない時、言葉の剣で人を傷つけてしまうことがあります。つい感情に従ってしまうのです。しかし、祈りを持って備えている時は、そこに愛と忍耐が生じ、人を傷つけことはありません。私たちの肉体は弱いものです。ですから、常に目をさまして祈り、霊的に強められ、霊の目を開いていただき、力をいただくのです。そうすれば誘惑に陥ることなく神様の御心を行うことが出来るのです。

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