全世界に福音を

新しい年を迎えました。正月は何かしら嬉しくなります。その理由は、長期の休みが取れるからでしょう。昔は、”藪入り(やぶいり)”と言って、主人に仕えていた奉公人が、盆と正月には休暇をもらって田舎に帰る事が出来ました。その時は、家族との交わり、友人知人との再会が今以上に楽しみだった事でしょう。
 また、新しい事、計画を新たにして始めるための環境が整っているからでしょう。家はきれいに掃除がされ、晴れ着を着て、髪はきれいに整えて、周囲は正月の装いで目にさわやかに映ります。また、この計画を実現するために365日があると思えば、「今年こそ何とかなるだろう。」と、言う安心感、そして、物言わぬ偶像にわずかばかりの賽銭を上げ、願い事をして「これで万全」と思うところに正月を楽しく思わせるもう一つの理由があると思うのです。しかし、計画通りには行かないのが現状ではないでしょうか。その原因はどこにあるかと言いますと、聖書は、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけがなる。」(箴言19:21)と言っています。
そこで、この年、3つの目標を持って宣教の働きに栄光が現される事を求めていきたいと願っています。 
 1,全員伝道者 2,十字架を負う信徒 3,与える信徒 
これが今年の目標です。
 1,の全員伝道者は、当然の事です。教会はの使命は、宣教と言っても過言ではありません。マタイ28:18~では、全ての人を弟子としなさいと言われました。弟子とはキリストイエス様の働き人です。また、マルコ16:15には「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えよ。」とお命じになっています。ですから、伝道は救われた全ての者に与えられている使命なのです。決して伝道師や牧師だけの務めではないのです。
2,十字架を負う信徒。イエス様は、「誰でもわたしに従ってきたい者は、自分を捨て自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい。」と言われました。 一体「十字架を負う」とはどういう事なのでしょうか。よく「未信者で迫害する主人が私の十字架です。」とか「障害を持った子供が、あるいは、自分の肉体上の傷害が十字架です」という事を耳にします。それらのものは、試練であって十字架ではありません。十字架は、死ぬための道具であり、つけられた者は「神に呪われた者」です。 イエスさまが 偽証で訴えられ、あらゆる誹謗中傷を受け、罵られても、ののしり返さず脅かす事もなさらず堪えられたのは、誰のためだったのでしょうか。人類の救いのために他なりません。十字架をになうという事は、そう言う事です。福音を伝える者となるときあなたも同じように、誹謗中傷され、悪口雑言その時イエス様を見て下さい。自分に死んで堪える事こそ十字架を負う事なのです。
3,与える者(信徒)に。は次週で・・・

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