へりくだって祈る時(詩篇20篇)

 私たちは、どのような問題の中にあっても、聖書の中から答えをいただき、慰めをいただくことが出来ます。
 1:1には、「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。」と書かれてあります。神様は、私たちが苦しくてどうしようもないとき、その祈りに答え、その御手をもって助けて下さいます。
自分の欲望の為(自己中心)の祈りではなく、謙って神様の栄光の為に祈るなら、その祈りは必ず聞かれ、あなたを天において高く上げられます。そして驚くべき御業が現され、人々はあなたを通して全能なる神様を見ることが出来るのです。
 私たちが犠牲を払って神様に従う時、神様はその捧げ物をしっかり見ておられ、祝福して下さいます。
「あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れて下さいますように。」(1:3)
 ダビデの人生には、様々な困難があり、戦いがありました。しかし、彼は、あらゆる時に主に祈り、賛美し、主の声に従いました。
 ときに、失敗と言われる出来事もありました。彼の忠実なしもべである、ウリヤの妻を自分のものにしたのです。そればかりではなく、ウリヤを戦いの前線にやり、彼を殺してしまいました。しかし、預言者ナタンが、彼の行った罪を諭し責めた時、ダビデは、ナタンのことばを主のことばとして、受け入れ、自分の考えや権威を用いることはせずに、謙って悔い改め、主に従いました。
ダビデの犯した罪は大きなものでしたが、神様は真の悔い改めを見、ダビデを赦し、彼を用いました。
 神様は、私たちを愛して下さっています。私たちが罪を悔い改め、謙る時、神様は私たちを受け入れて下さり、用いて下さるのです。
「今こそ、私は知る。主は、油注がれた者をお救いになる。主は右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。」(20:6)
 罪があるところには、神様はご自身を現しては下さいません。
謙った魂の上に、神様はご臨在を現して下さるのです。私たちは罪を悔い改め、責められるところのないものとして、確信をもって用いていただきましょう。
 イエス様が天に昇られる前に、弟子達に「聖霊を受けなさい。」と言われました。それまで、弟子達は肉の思いに支配され、肉体も弱く、人々を恐れる者でした。しかし、聖霊を受けた時、彼らは確信に満ちあふれ、福音を大胆に伝える者となり、命をかけて宣教活動を行ったのです。
 聖霊様に満たされることはとても大切なことです。聖霊様がいつも共にいて下さり、救って下さるのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」(マタイ28:20)
 私たちは、聖霊様のご臨在の中で、主の名(アドナイ・イルエ。備えて下さる、の意。)を誇り、確信に満ちた歩みをしましょう。
 神様は、私たちが呼ぶときに、必ず答えて下さる愛なる神様です。
ですから、神様の前に謙って、忠実に御言葉に従っていきましょう。

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