ホサナ通信(1981.10.11号)

 夕食を終えた子供たち、それぞれに寝るまでの時間を楽しんでいます。末っ子美和は、ブロックで何かを制作中。次男基信は漫画。長男恒喜が粘土と粘土板を抱えて子供部屋から出てきました。みんなのいる所の方がよいのでしょう。美和と並んで粘土をこね始めました。鼻歌を歌いながらの作業なのですが、その節が懐かしいものだったので思わず耳を傾けました。
 小さいころ、よく口ずさんでは終わりのところへくると笑い転げたこの歌です。
 ”・・・豆腐は白い。白いうさぎ。うさぎは跳ねる。跳ねるはノミ。ノミは赤い。赤いはほおずき。ほうずきは鳴る。鳴るは~”この節回しで何やら歌っているのでじっと聞いていると、”・・・は強い。強いはライオン。ライオンは怖い。怖いは・・・あっ、お母さん”と歌うではありませんか。長男にとって私はそんなに怖い存在なのかしら・・・、ちょっと淋しい気がしましたが、次に続く歌詞を聞いて一安心。”怖いはお母さん。お母さんは優しい”と続いたからです。
 ほっとしながら声を掛けます。
「恒喜。そこのところはおかしいんじゃなあい?怖いのがお母さんで、そのお母さんが優しいなんて。」
 すると、長男は何だってそんなことを言うのかといような顔つきで答えました。
 「だって、お母さんは怖いときも優しいときもあるでしょ?僕が悪いことをしたときはすごく怖いし、いいことをしたときは優しいし・・・。だからあれでいいと。」
 なるほど。この長男の答えを聞いていて、聖書にも同じような表現があったのが思い出されました。ローマ人への手紙の一一章二二節のお言葉です。
 「見て、ごらんなさい。神のいつくみときびしさを。」リビングバイブルでは、「神様がどんなに恵み深く、また、どんなにきびしい方かを考えなさい」となっています。真実の愛には、いつもこの両面があることを知って、「優しいお母さん」とばかり呼ばれたいという誘惑にかられていた私の心も落着きました。
 長男七歳、次男五歳、長女三歳。何かにつけてしかることの多い年齢です。下の二人は、しかられると案外早めに「ごめんなさい」と謝るので、すぐに赦してもらえるのですが、理屈の多くなった長男は、なかなか「ごめんなさい」と言わないので、しかられている時間が長くなりました。口答えをすればするほど不利になるのに、自分の主張を曲げないで頑張るのです。この間も、あまり自分勝手な言い分を通そうするのできつくしかりました。終わりには、おしりをたたくことになったのですが、たたかれながらも「お母さんなんか嫌いだ!」と反抗します。ますます力を込めてたたきながら、心の中では(早く分かってくれないかな。ごめんなさいって言わないかな)と祈るような気持ちです。とうとう「僕が悪かったよ。ごめんなさい。」と長男が言った時、ほっとしたのは私のほうでした。「随分たたかれたわね。自分の悪いのが分かった?」と聞くと「はい。だけどあんなにたたかなくてもよかったっちゃない?三発くらいでもよかったのに。」
「・・・・・・・」
十字架に現されている神の厳しさと慈しみ。罪に対してきびしく臨まれる神。それ以上に人々が立ち返ってくるのを臨まれ、いつでも赦したいと待っておられる神。
 神の厳しさと慈しみを思いながらしかったことでした。

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