ホサナ通信(1981年10月4日号)

 七月末から八月一杯の夏休み。ワイワイガヤガヤと子供たちの騒がしかったこと。朝が少しのんびり出来るわ・・・と最初のうちは喜んでいた私も、10日もすると早く休みが終わってくれればいいと思い始めるようになりました。
 何しろ、ラジオ体操が6時半からなので、子供たちの起床は6時20分頃。それから夜寝るまでの間、子供特有の疲れを知らぬ元気さで遊び回るのです。うるさいから外で遊ぶように追い出すと、今度は汗だくの泥まみれでご帰還です。一日何回のシャワーを使ったでしょうか。そして遊びの合間の食べ物の催促。「ねえ、お母さん。お腹空いたなぁ。何か食べるものない?」とか、「あーあ。のどからから。冷たいものは?」と三人が入れ代わり立ち代わりやって来ます。こうなると朝少し忙しい思いをしても、昼間の静けさの方が恋しくなってくるのです。
 でも、そんな中でうれしかったことは、子供たちのお手伝い。これは旅行中と聖日を除いて毎日続けられました。長男恒喜は、毎朝各部屋に掃除機をかけること。次男基信はふき掃除を受け持ちました。初めの内は、自分でした方が早くきれいに出来るのに・・・と思うこともしばしばでしたが、しばらくすると二人とも上手になってやはり手伝ってもらって良かった、と思うようになりました。最も、半月ほどで二人とも自分の役割に飽きてしまい、その後は恒喜は朝と昼の食事の後かたづけ(食器洗い)、基信は掃除機をかける方に代わりましたが、いずれにしても仕事が減って大助かりでした。末っ子の美和も、二人のお兄ちゃんが手伝っているのを見て、自分もやりたがりますので雑用係にしました。(パンを焼いたり、卵をかき混ぜたり、いすを並べたり・・・etc。)
 一生懸命働く子供たちを見ていると、なんだか不思議な気がしてきます。(これが、あの小さな赤ん坊だった子供たちなのだろうか。お腹がすいたと言っては泣き、おむつが濡れたと言っては泣いていた。私が抱いてあげなければどこへも行くことの出来なかったあの子たちなのだろうか)と。それと同時に(そう。確かにこの子たちは私のお腹を痛めた子供たちなんだ。なんと成長したことだろう)と、うれしさも込み上げて来ます。
 親にとって手塩にかけた子供たちの成長は、たといそれがどんなに小さなものであっても、格別のうれしさがあるものです。
 夏休みも終わりに近づいた8月26日。朝から子供たちは絵を描くことに夢中になっています。恒喜が宿題の絵を描き始めたのがきっかけとなって、後の二人もそれぞれに描き出しました。構図が上手くまとまらなくてウンウンうなりながら描いている長男。楽しくて仕方がないというように鼻歌まじりの次男。兄貴たちに負けまいと懸命に画用紙にクレヨンを塗りつけている末っ子。制作過程の表情はまちまちでしたが、出来上がった作品を眺めている様子は一様です。壁に貼りだした自分の作品を得意そうに、そしていとおしそうに眺めているのです。上手下手は別にして、自分の手で作り出した作品は、自分の心が映っているようで愛着が湧くのでしょう。
 ”私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。”(エペソ2・10)
 私たちを造ってくださった神様も、このような思いでその作品である私たちを見ておられるのでしょうか。

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