ホサナ通信 (1981年2月15日)

 もやもやと立ち上る白い湯気。太陽の香りが辺りに漂います。
 昨年の春ごろからでしたか、太陽熱を利用してお風呂のお湯を沸かしているのです。灯油で沸かすのとは、同じお湯でも何か温かみが違うようで、疲れもよくとれるように思えるのは気のせいでしょうか。神様の与えてくださった日の光のありがたさを、味わいながら入るお風呂は格別なものです。
 湯船には、私と美和。よそから見ると、そう見えるのですが、実はもう二人入っているのです。長男と次男も入っているのですけれど、二人とも湯船に入るなり潜水(潜湯?)して、上がって来ないのです。
 長男は、四才の終わり頃から、水に潜ることを何とも思わないようになっていたのですが、次男は、昨年の夏に初めて、幼稚園のプールで顔付けをし始めたところ。ザブン、と水面に顔をつけるやいなや顔を上げて、両手であわてて顔に着いた水気を払い落とす、といった調子で、なかなか水になじめないようでした。
 それでも、お風呂に入る度に、長男が潜って見せるので、大分刺激を受けた様子。
 こわごわですが、何度も試みるようになりました。初めは、顔の表面だけ。それも二、三秒。そして耳の辺りまで水につけられるようになりました。それでも、顔を全部浸してしまうのには、まだ勇気がないようでした。
 ところが、先日、ハプニングがありました。次男が、湯船の中でふざけていて、足を滑らせて転んでしまったのです。ザブン!!全身が湯船の中に沈みました。バタバタともがいて、やっと顔を出した次男。ショックで泣き出しそうな表情でしたが、「あーら、基信。潜れたじゃない。ねえ、恒喜、基信が潜れたわよ。今のは随分長かったわねェ」と、わざと大げさにはしゃいで見せると、思い直したのか、照れ臭そうにニヤっと笑って、「エヘヘ。僕も潜れるようになったぁ。」
 それからが大変。おふろに入る度に、ザブリザブリと潜りの練習。最近では、目も開けられるようになって、お湯の中から私を見上げて、ニヤリと笑ったりする余裕まで出て来ました。
 そうなると、今度は長男も負けてはいられないのか、どの位長い間潜っていられるかと、息の長さの競争をけしかけます。もちろん長男のほうが勝つのですが、その彼も、以前よりはより長くがんばるようになりました。前だったら上がってくるだろうなと思う長さでも、もう一がんばりするようになったのです。きっと弟には負けてられないぞ、という気持ちなのでしょう。見ているこちらのほうが、ハラハラしてしまいます。
 その次は、末っ子の美和です。彼女もお兄ちゃんたちを真似て、パチャリパチャリと顔を付けるようになり、今では、五つ数える位まではがんばるようになりました。
 三人いると、ケンカも多いのですが、お互いに刺激しあったり、励まし合ったりして、成長していくので、一人より二人、二人より三人、と多い方が良いと思えるこのごろです。
 信仰生活も、一人では戦いもないかわりに、成長もないのではないでしょうか。
 「人がひとりでいるのは良くない」と女を造られ、又、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と、家族、友人、人々を与えられた神の恵みが分かったような気がします。
 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル書)

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