ホサナ通信(1981年6月28日号)

 「恒喜、指が違うわよ。楽譜を見てご覧なさい。3の指(中指)を1の指(親指)に換えて弾くと書いてあるでしょ。」「だって、ぼくはこの方がやりいいんだもの。」「だめよ。楽譜を見て、その通りに弾かなきゃ。ほら、もう一度。」
 ピアノを前にしての会話です。一日に30分以上は練習するようにと先生に言われているので、毎日練習をしているのですが、このごろはとてもやりにくくなりました。習い始めのころは、何でも「はい。はい。」と言うことを聞いていた長男が、少しは弾けるようになると、自分の思うとおりに弾きたがるようになったからです。
 私に注意されて、しばらくは楽譜に目を向けていた長男も、又、楽譜から目を離して自己流の指使いをし出しました。「ほら、恒喜。楽譜、楽譜!!」と注意すると、「もうーッ。お母さんは!何でお母さんはそんなに言うと!ぼくの好きなように弾いてもいいでしょ。弾けるんだから」と真っ赤な顔で反抗してきます。
 「あら、お母さんが言っているんじゃないのよ。先生がおっしゃったでしょ。最初に変な癖がつくと、後が困るからって・・・。」
 幼児科の2年を終えて、アンサンブルコースに入りました。このコースは、個人の演奏だけではなく、合奏も教えるのですが、そのレッスンの初めの日、先生から注意がありました。
 「幼児科は、楽しく音楽を学ぶということに重点を置いてきましたが、今度はより上手に演奏することを学びます。他の人と合奏することも出て来ますので、そのために、個人個人が基礎をしっかりと身につけることが大事なのです。楽譜を見て、その通り演奏することを心がけないと、他の人とのハーモニーがうまくいきません。指使いも、もっとも滑らかに弾けるように指示してあります。自分勝手な方法でも弾けないことはありませんが、今はそれでいいように思えても、もっと大きな曲、難しい曲になると必ず行き詰まりますから、今の内に正しい方法で練習するように。」
 長男にこの話を思い起こさせて、「さあ、言われた通りにしてみて御覧。専門家の言うことは聞くものよ。」「センモンカって何?」「そのことばかりを勉強したり、研究したりしている人のこと。ピアノのことは、恒喜の習っているT先生よ。先生は、どうしたら正しくて、簡単な方法でピアノを弾けるように教えられるかを勉強してきた先生なの。だから言う通りにしていったら、必ず上手になるから。」「ふ~ん。」長男はしぶしぶながらですが、もう一度楽譜を見ながらピアノに挑戦します。しばらくすると、「お母さーん。出来た。出来た。やっぱり、この方がやりやすかった!」とうれしそうな声が聞こえてきました。
 信仰も、聖書という楽譜を見て、その通りに演奏(生活)することではないでしょうか。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」
 魂の専門家である神のみ言葉に信頼して、従って行く時、私たちはもっとも容易な方法で、正しく神様に近づいていけると思うのです。自己流の信仰は、ある程度までは進みますが、やがては行き詰まってしまうものです。
 最初は自分の思いにかなわなくても、素直にみ言葉を受け入れて従って行くとき、健全な信仰が成長するのではないでしょうか。クリスチャンの一人一人が、この基礎をしっかりと身に付けて歩むとき、どんなに沢山の人々が集まってきても、調和の取れた美しい神のメロディーを奏でる教会になれるのではないかと、このレッスンのことを通して教えられました。

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